経済学というのは何よりも現実の経済の動きを理解しようという学問だと私は理解しています。経済学をやろうという研究者は、現実社会の日々の動きに関して幅ひろく注意を払う必要があります。GDPの変化や貿易、金融市場の動き、電力供給の問題、年金制度、食糧問題、女性労働力、高齢化への対応、教育の動向、法律・・・その他もろもろ。経済学の研究のためには幅広い知識が必要なのですが、しかしあまりに広く手を広げすぎると、もちろん深さが犠牲になりかねません。幅ひろさと深さのバランスを取ることは常に難しい。そのことを充分自覚しつつも、私は何にでも手を出してしまう。名城大学では同じ学部や他の学部にいろいろな分野の専門家がいるので、同僚達にかなり深いレベルの知識を分けてもらうことができます。興味があると手を出し足を出す癖は、年齢が進んでも直らない。しかし、その中でも比較的長期にわたってこだわっているのは大恐慌の経済学です。

 これまで20年以上、経済学は厳しい現実のチャレンジを受けてきました。現実に展開している事実を、経済学が説明しきれないことが明らかだったからです。特にバブル崩壊以後に起きた経済激震を、従来の経済学で説明しようとすることは絶望的でした。言葉だけ巧みで器用な解説は数多く読み聞きしましたが、幾つかの重要な例外を除いて、結局は説明になっていないと結論せざるを得ませんでした。経済学は確かにものすごく複雑化し、高度なテクニックを駆使するようになりました。しかし本当はどういう力が働いて、どこをどのように動かした結果現実に物事が起こったのかという説明となると、「ああそうだったのか」と納得するようなものは、幾つかの重要な例外を除いてありませんでした。

 日本のバブル崩壊以後、アジア通貨危機、アメリカ発の世界金融危機、ユーロ圏の金融危機などを眺めてみると、従来の経済学が1930年代の世界大恐慌の解明を何十年もの間できていないままの状態でいたことに気づきます。ケインズといえども解明に成功したわけではありません。時が過ぎても経済学は大恐慌のメカニズムを解明できず、できないままに問題そのものを忘れることにしました。大きな景気変動はもう起きない!! とか、大恐慌など無かったのだ !! などとんでもないことを言い出すノーベル経済学賞受賞者や世界的大学者たちまで出現したのでした。その数年後に、彼らがいかに間違っていたかが誰の眼にも明らかとなりました。しかし過去十数年の間に、幾つかの重要な例外が登場したのも事実です。そのおかげで、世界大恐慌や日本のバブル後、アメリカやユーロ圏発の金融・経済危機をある意味で統一的に理解することが徐々に可能になって来たと感じられるようになりました。この分野には考えなければならない問題がまだ無数にあります。

 他の研究では、ここ5、6年の間、日本や韓国、オーストラリア、中国などの年金問題を調べてきました。完成したのやら書きかけの論文が幾つかあります。アジア太平洋でも高齢化が進む国が多いのですが、それを支えるはずの年金制度に問題がある国が非常に多い。また最近、学生達と一緒に勉強しようと思って電力供給体勢のことを調べ始めました。ここも経営者、政治家、研究者の発言は千差万別です。深入りしそうです。

 経済学と離れた研究では、太平洋戦争をオーストラリア側から見るという作業をしています。オーストラリアは連合国の一員として日本と戦ったというだけでなく、最初は日本におしまくられたアメリカが、日本に反撃開始するに当たってその総司令部を置いたところでもあります。マッカーサーはここから指令を下していたのでした。敗戦国の日本人が太平洋戦争を語ろうとすると、どうしても「あの悲惨な」とか「二度とおこしてはならない」とかの感情的形容詞を連ねがちです。形容詞はもちろん大切ですが、日本の反対側から見ると戦争が具体的にどのように進展し、相手側は戦争が進むごとにどのように反応していったのかが始めて見るドラマのように見えます。アメリカやオーストラリアの内情はどうだったのかを調べることで、相手側と日本について、あまり形容詞に寄らないより淡々とした理解ができるようになると自分では感じています。この作業は、調べれば調べるほど疑問と質問が湧いてきます。何年かけても終わりは無いだろうと思うようになりました。しかしあと2年くらいのうちに中間報告のようなものをまとめたいと思っています。そこからさらに調査を深く、広くしていければいいのですが。