学部長・学科長メッセージ
経済学科 学科長 伊藤 志のぶ
経済学は社会科学の中立的な一分野ですが、知見の利用では社会の(制度)選択などについて意思決定を迫られる事があります。一般に「科学」の学問としての目的を「真理」の探究とすると、経済学の目的のひとつは真理の探究に留まらず、公的領域における政策や戦略の策定に貢献する事が挙げられます。例えば、中央銀行の政策変更の際や、課税制度などの再分配政策により所得格差を是正する際などに、私たちは価値判断を含む裁量的な経済政策を容認しています。
「どんな社会に暮らしたいのか」について、現在の自分の満足感が最大になるような社会が良いのか、将来に渡って次の世代がより幸せになる社会が良いのかという選択肢を考えるとします。日本の賦課方式の年金制度を例にとるなら、「保険料と、老後に受け取る年金を現状のままにする」か、「老後に受け取る年金を減らし、次世代(若者)の負担を軽減する」かのような場合です。教室で手を挙げて頂くと、多くの方が「老後に受け取る年金を減らし、次世代の負担を軽減する制度」が良いと答えます。このような問題を提示された場合、経済学として、何を基準に選択すればよいでしょうか。
社会全体の所得分配の方法を選択する際に、「自分にとってはどちらが得なのか」を基準とするのではなく、「社会にとってどちらが望ましいのか」「社会はどうあるべきか」を考える研究分野を規範経済学と呼びます。公共経済学と政治経済学、法哲学との学際的分野です。「最大多数の最大幸福」は功利主義に基づく分配基準ですが、功利主義と比較される概念として平等主義やJ. ロールズのマキシミン原理がこの分野の議論としてはよく知られています。構成員全員に均等配分となるのが平等主義、「社会の最も恵まれない人の効用を最大にする」分配方法がロールズのマキシミン原理です。経済社会の現況と分配方法の価値基準を、あり得べき別の社会の価値基準に照らして考えると、自分以外の人々が置かれた状況について想像し共感する力が身につきます。規範経済学は、自由な市場を主な分析対象とする経済学にあってはややマイナーな分野ですが、多様性が重要視されるようになった現代ではとても大切な研究領域です。
現代は「多様性の時代」と言われますが、対立や排斥ではなく、多様な価値基準が並び立つような寛容さが求められています。自治体も企業も学校も、前例の無い個別の案件について、ひとつひとつ対応を決める必要があります。多数派が占める社会で少数派(マイノリティ)の便益を最大にする場合は、「なぜマイノリティを特別扱いするのか」という逆差別問題としての批判が生じます。例えば、男性が多数を占める議会に一定割合の女性枠を設けるという施策の場合、現役の男性議員が替わりに議席を失えば対立の禍根になり得ます。このようなクォーター制の是非についても、J. ロールズの格差原理(クォーター制のような差別的な取り扱い(特別扱い)は、その差別が社会の最も恵まれない人々の便益となる限り容認される)は根拠を与えていますが、さらに禍根を避ける方法を議論するのも規範経済学です。
「多様性の時代」が難しいのは、異なる価値基準は相入れず衝突を生む可能性がある点です。自分と違う文化や環境について学び、異なる価値基準を社会に受け入れるのは簡単なことではありませんが、規範経済学を学ぶことはこのような課題解決に役立つと考えられます。