学部長・学科長メッセージ
産業社会学科 学科長 太田 志乃
学生と交わっているとふと、彼らに「眩しさ」「羨ましさ」を感じる自分に気付く時がある。大学生の若さなのか、彼らの可能性が無限大に拡がっていることに対してなのか、自分でも理解できない感情だが、少なくとも小職よりも「何か」を持ち合わせていることに対する羨望なのだろうと思う。
上の文章だけ読むとこのヒト、どうしちゃったの?と思う学生もいるだろうが、それは皆さんが小職の歳に追いつかないと理解できないだろう。それほどまでに、大学生は学問を究めるにしても、将来設計を描くにしても充分な時間と余裕がある。私自身が大学生時代を経ているので、それは確かだ。ただ、私の大学生時代と今とでは大きな違いがある。「情報」への接し方だ。
小職が大学に入学した頃は、全学生に大学のメールアドレスが付与され、経済学部でいうところの情報処理入門のような科目が整備された年である。ただ未だレポートは自筆で作成、そのために新聞記事に目を通したり、関連論文を図書館の情報端末で検索したりした(それに輪をかけて大変だったのは、その論文を背伸びしながら読んだことだったけれど)。もうすぐサービス終了となる世界初の携帯電話IP接続サービス、iモードですら21世紀初頭は論文検索なんてできる由もなかった。
ただ、振り返ると当時はそれをシンドイとは思わなかった。それが当たり前だったから。否、読みたい本を探すのに図書館の目録カードを血眼になって探していたという恩師の話を聞いて、「昔は大変だったのね」と思ったものだ。それが今や、調べたいフレーズ、現象を検索エンジンにかければある程度の形がみえてくる。生成AIを活用すれば、よりスピーディーにことを終えることができる。この環境にあるのが、今の学生たちだ。
生成AIの活用にモラルやリテラシーが必要なことは、学生たちにとっては耳にタコだろう。そして学びや将来のために、生成AIの可能性をうまく利活用しなければならないことももちろん、認識しているだろう。ただし、学生でもAIが活用できる時代に小職が「羨ましさ」を感じるかというと「そうでもない」。もし、AIを表面的にしか活用できていないとしたら、情報を得て、それを自分なりに解釈し、自分の言葉で表現する、そのステップをみすみす捨てているように感じるからだ。諸々に時間を費やすことができる学生の今だからこそ、「考える」ことに時間を割くことができるのに、それを人工知能に代替させるのはもったいない。
もちろん、すべての学生が生成AIをそのように使用しているわけではない。でも、自身に置き換えれば「そういえば…」と感じる学生もいるだろう。AI活用が個人の情報処理スキルを向上させるのは当然であるし、これからはむしろ必要なことでもある。ただし、自身の「考える」能力を飛躍的に高めるには、AI活用にはそれなりのモラルが必要となる。そのことに気付かなければ、せっかくの大学時代の貴重な時間をムダに終わらせることになりかねない。
加えて、生成AIにしてもSNSにしても、何かしらの「情報」からその使用にたどり着くはずであり、何ら知識もないまま使用できるものではない。この「情報」の選択にもやたらと時間を要する。ある「情報」を得るためのツールがかなりの数に上るため、その取捨選択にも莫大な時間を要する。「情報」に振り回されているようなものだ。そのことを理解したうえで、スマートに「情報」に向き合う姿勢が求められる。
そしてここまで書いていて気が付いた。最近の学生はスマートに「情報」に接しているように見えるのかも。それに対して…やはり小職、ウラヤマシさを感じているのかも。