私が名城大学経済学部に赴任したのは、経済学部発足と同じ年の2000年4月であった。名城大学における私の足跡は、経済学部の歴史と一致する。 10年ひと昔と言い、10年間は長いようであるが、実感としては非常に短いものであった。これも歳をとってきたせいだろうか。
 私の研究分野は、大きく分けて日本の中小企業政策の形成過程の研究、イギリスの中小企業政策の研究、地域産業集積の研究の3つからなるので、この10年間の名城大学におけるこれら3分野での研究成果を振り返り、残された人生の反省材料にしてみたい。

【1】中小企業政策の形成過程の研究

 もともと中小企業政策史の研究をしていた私が、中小企業庁の設置の経緯に関する研究を始めたのは、1980年代半ばのことであった。研究の発端は、戦後日本の中小企業政策を整理していたときに、1948年の中小企業庁の設置はどのような経緯から始まったのかと思ったことである。中小企業政策を専門に行う行政機関の設置は、世界広し、といえども日本が最初の国であった。当時の日本は、アメリカの占頷下にあったので、中小企業庁の設置はアメリカの意向が働いていたのではないかと単純に考えていたのである。そこでそのころアメリカの国立公文書館に所蔵されているGHQ/SCAP関連の文書が国立国会図書館で公開されていたのを知って、国会図書館憲政資料室に通ってGHQ/SCAP文書の中から中小企業政策関連の資料を探し出し、中小企業庁の設置と設置以後の政策関連の資料を読み始めたのである。 1980年代末から90年代にかけて、ほぼ全部と思われる資料に目を通し、論文も書いていた。名城大学に赴任してからは、それらの論文を再編成して一冊の著書にまとめようと思っていた。これが完成したのは、2001年であった。
 中小企業論関連の本を数多く出版している(株)同友館に出版を依頼した。ところがちょうどこの頃は、日本経済の景気が最悪の時期で、出版社も経営は苦しかったようである。もともと研究書は市場性に乏しいところにもってきて、経済状況も最悪である。ということから出版助成を得なければ、研究書の出版は不可能な状況であった。そのため名城大学経済・経営学会より2003年度の出版助成を得て、ようやく出版にこぎつけることができ、2003年4月に出版された。本の表題は、『戦後再建期の中小企業政策の形成と展開』というものであった。初版の印刷部数はわずか800部、初版を全て売り切ったのは2008年であった。いかに研究書の出版が難しいかを示している。
 (財)商工総合研究所が毎年募集している2003年度の「中小企業研究奨励賞」の経済部門に応募したところ、準賞に選ばれた。その年は、本賞は該当なしとのことであった。ただし私は、2003年4月から2004年3月まで、在外研究員としてイギリスに滞在していたために、2004年2月に行われた表彰式に参加することができなかった。審査委員は本書を、「実証性に富む労作であることについては[審査委員の…渡辺補足]誰も異論がなかったが、一冊の著作として捉えてよいものか否かとなると、…体系性に問題が残るという指摘が多かった」と評価している((財)商工総合研究所『商工金融』第54巻第3号所収、6頁、2004年3月)。これが準賞たるゆえんであろう。たしかに反省点である。私にとって、論文であれ、著書であれ、原稿を書き終えると、欠陥が目につくのは毎度のことである。表彰式に欠席したものの、受賞に対する謝辞を手紙にしたため、(財)商工総合研究所に送ったが、その手紙のなかでも同様のことを述べた記憶がある。職人の仕事に対するこだわりを紹介するテレビ番組の中で、職人は、これまで作ってきたものの中で、本当に満足のいくものは、いまだに何もないといった類の話をよくするが、研究者の仕事も職人に似たところがある。私も、満足できる仕事ができないままに、研究者を引退していくのかもしれない。
 帰国後、2004年4月に入って、この本を博士(経済学)の学位論文として立教大学に提出した。審査および試験の結果、2004年9月、博士(経済学)の学位を授与された。ちなみに学位記には経博第62号と記載されている。学位論文の審査をした小松善雄氏から、審査報告書のなかで、本書を「中小企業庁の設立過程の解明は、戦後中小企業政策史、ひいては経済政策史に取り組むさい、もっとも重要な歴史的画期の一つであり、当該分野を研究する後進にとって裨益するところ多大であるといえる」(小松善雄他「学位論文審査報告」『立教経済学研究』第59巻第1号所収、152頁、2005年7月)と、過分な評価をいただいた。また、上記以外に私が掌握している限りでは、有田辰男(『名城論叢』第4巻第4号所収、2004年3月)、寺岡寛(『中小企業季報』通巻第127号所収、2003年10月)、松島茂(『経営史学』第40巻第2号所収、2005年9月)の各氏から、本書に対する書評をいただき、かつ今後の研究課題も提示していただいた。とりわけ有田辰男氏からは、「政策形成の過程に注目し、その形成過程における紆余曲折を明らかにすることを通じて政策の本質を探ろうとする研究である」と本書の目的をとらえた上で、本書の続編を書くことと、本書が明らかにした「政策形成過程の紆余曲折が中小企業政策展開の流れにどのような影響をもったのか、あるべき政策と現実の政策との乖離という点ではどうだったのか、また、著者のいう『正史』との関わりをどう見るか等について、今後さらなる考察を進めて欲しい」と、今後の研究課題を提示していただいたにもかかわらず、いまだ期待に答えていないのは、申し訳ないと思っている。
 GHQ/SCAP資料を利用した研究は私のライフワークともいうもので、終了することのない研究である。その後、GHQ/SCAP資料のなかにある1949年の中小企業等協同組合法の制定について論文をまとめようと準備しているが、まだ完成にいたっていない。

【2】イギリス中小企業政策の研究

 日本の中小企業政策の研究をしていた私がイギリスの研究をはじめたのは、やはり1980年代のことであった。日本の政策研究をしながら、他方で中小企業に注目が注がれ始めたイギリスにおいてどのような中小企業政策が展開されているのか、興味を持ったからである。日英の中小企業政策の比較研究が必要ではないかと考えたのである。現在は比較政策論研究という用語が定着しつつあるが、1980年代当時こうしたことを考えていたのである。 1995年2月1日から1996年1月31日まで、私はイギリスのキングストン大学ビジネススクール付属中小企業研究センターにおいて、イギリスの中小企業研究の現状について研究する機会があった。名城大学に来てからも、2003年4月1日から2004年3月31日まで、名城大学の長期在外研修制度を利用して、再びキングストン大学において、イギリスの中小企業政策の現状について研究することができた。前回の研究課題は、イギリスの中小企業研究の現状把握であったのに対して、今回は政策研究を重視した研究であった。

 

(1)キングストンおよびキングストン大学
 キングストン(Kingston)は、ロンドンの南西方向の郊外にあり、ロンドン市の一部である。ロンドンのターミナル駅の一つであるウォータールー(Waterloo)駅から電車に乗ると、30分弱で到着する。正式な地名はKingston upon Thamesということからわかるように、テムズ河畔の町である。
 キングストン大学(Kingston University)は、イギリスの他の大学と同様にカレッジ制を採用しているため、キャンパスは4箇所に分散している。私は、そのうちのKingston Hillにあるビジネススクール付属の中小企業研究センター(Small Business Research Centre)に客員教授(Visiting Professor)として滞在した。キングストン大学は、1970年にPolytechnicとしてスタートし、1992年に大学制度改革によりUniversityとなった、比較的歴史の新しい大学である。歴史は新しいとはいえ、大学評価において、ポリテクニクから昇格した大学のなかでは常にトップ10に入る評価を受けている。また中小企業研究センターは、実証研究の手堅さから、イギリスアカデミズムにおける中小企業研究の分野において、これまた高い評価を得ている。中小企業研究センターの当時のスタッフは、所長のRobert Blackburn教授のほかに教授2名、研究員5名、合計8名で、学生のための講義と外部からの委託調査を行っていた。

 

(2)研究生活
 私は、月曜日から金曜日まで毎日、中小企業研究センターに行き、資料収集と読書、原稿執筆、講義への参加、スタッフとの意見交換等々充実した日を送ることができた。さらに10月には、マイノリティが自営業者として自立するために支援しているReflexというNPO組織が主催した研修集会に参加し、イギリスの中小企業支援の一端と、マイノリティグループがいかにイギリス社会の中で根をおろそうと努力している姿をみることができた。また11月には中小企業学会(lnstitute for Small Business Affairs、この学会は現在、lnstitute for Small Business and Enterprenuershipと名称を変更している)主催の全国大会に参加し、1月には同じく中小企業学会が主催したロンドンでの研究会に参加し、イギリスのアカデミズムにおける中小企業研究の現状についても知ることができた。
 現在はインターネットの時代であり、政府の重要文書はほとんどがネット上で公開されている。イギリスに滞在しなくても、日本にいても資料収集はかなりの部分で可能になるが、より詳細な事情や背景にある考え方は、現地で確認しつつ、認識を深めていく以外にない。そうであるからこそ在外研究の意義があることを今回再認識した次第である。

 

(3)研究成果
 イギリスでは1997年に労働党が政権を取り、保守党時代とは違った中小企業政策を実施することになった。発足当初は独自の中小企業政策がみられなかった労働党政権だが、2000年4月に中小企業庁(Small Business Service)が設立され、ようやく独自の政策がとられるようになった。 2000年以降たてつづけに新たな中小企業政策が立案され、それに関連する文書が公表されているが、私がイギリスに滞在していたときの代表的文書は、2004年1月に発表された"Government Action Plan for Small Business" というものである。その中で中小企業政策の戦略目標として確認されていることは、(1)起業文化の形成、(2)ダイナミックな新規開業市場の育成、(3)中小企業の成長力の形成、(4)金融問題の改善、(5)不利益を被っている地域、グループにおける企業の育成、(6)政府のサービスに中小企業の経験を生かす、(7)より良い規制を開発する、といった項目である。
 ブレア政権は、2005年までに世界の中で企業を開業し、経営するためにはイギリスを最適の場所にするということをスローガンに中小企業振興策を推進していた。保守党のメージャー政権は国際競争力強化と自由競争の推進の2つをベクトルに中小企業政策を推進したが、ブレア政権は国際競争力強化を生かしつつも、社会的公正に軸心を移して、国際競争力と社会的公正のベクトルで中小企業政策を進めようとしていたのである。ブレア政権は保守党の政策を180度方向転換するのではなく、保守党の成果を生かしつつも軌道修正しようとしていたのである。こうしたバランス感覚が選挙において労働党に支持を与える背景となっていた。そして社会的公正の具体的内容が、マイノリティ企業、女性企業、社会的企業(Social Enterprise)の重視であり、恵まれない地域(Deprived Area)への支援である。なお社会的企業とは、私的利益を目的に経営される企業ではなく、社会の構成員の利益のために存在する企業であると定義されている。具体的には、労働者所有企業、信用組合、協同組合、身障者を雇用するための企業、フェアトレードのための事業、チャリティショップ等々が考えられている。
 日本では市場のことは市場にまかせるという市場原理主義がまかりとおっていたが、イギリスは必ずしも市場原理主義一本槍の政策展開ではなかった。なにゆえ政府は中小企業政策を強化しなければならないのかという点については、政策の必然性として議論されているが、私がみるところでは、議論は市場の失敗と政府の戦略の2つに収斂されるようである。市場の失敗に対応するために政府介入が必要であるということについては誰も否定しないが、政府の戦略については、政府の市場介入の是非として議論の分かれるところである。日本ではかつてビジョン行政の名のもとに通産省(現経済産業省)の政策介入が頻繁に行われたが、これは悪名高い通産省(Notorious MITI)として、主としてアメリカから批判された。その後通産省は規制緩和官庁に路線転換した。イギリスの現状をみると、かつての日本が再現されているような錯覚に陥る。政府の戦略の有無は、畢竟するに政策ビジョンを持つ国と持たない国の違いである。そしてブレア政権の戦略とは、国際競争力の強化と社会的公正を追求しつつ、2005年までにイギリスを、世界の中で企業を開業し、経営するのに最適な国とするということである。
 在外研究は、中小企業政策のありかた、その是非およびビジョンの必要性を考えさせられた。在外研究の成果は、「イギリスにおける中小企業政策の展開−2004年のアクションプランを中心にして−」(『名城論叢』第5巻第3号所収、2005年2月)に発表した。そして上記の文章は、この論文の結論部分を一部活用している。
 もっともブレアは、ブッシュの対イラク戦争に加担し、国民の批判を浴び、2007年6月に退陣したのは周知の通りである。またブレアの退陣に先立ち2007年4月には中小企業庁(SBS)は廃止されてしまった。したがって現在の私にとって、SBSの終焉とブレア退陣後のブラウン政権下の中小企業政策をまとめることが課題になっている。

 

(4)キングストン大学の授業
 なおここで私の研究とは関係ないが、キングストン大学における授業を紹介しておこう。
 キングストン大学には、一言で説明するには不可能なくらいさまざまなコースがあり、学生の年齢層は多様であるが、日本のように18歳前後で大学に入学し、3年の在籍の後に卒業するのが、もっとも標準的な例である。日本の大学のように全学共通科目(旧一般教養科目)がないため、入学と同時に専門科目の履修が始まる。中小企業論は、経営管理(Business Management)コースの2年次と3年次の選択科目に配当され、2年次の科目名は”Small Business Ventures”、3年次の科目名は”Small Business Studies”と名づけられている。そこで、Small Business Studiesを例にとって、キングストン大学と名城大学との授業時間、講義形式、受講学生数の相違について比較してみる。
 まず授業時間について。下記にみられるように、キングストン大学では年間講義時間は17時間、セミナー16時間、自習117時間、合計150時間である。他方、名城大学は講義56時間、自習112時間、合計168時間である。なおどちらの大学も試験時間を除いている。講義時間は名城大学のほうがはるかに長い。また名城大学は1回の授業が2時間であるのに対して、キングストン大学は1時間である。

 

  キングストン大学 名城大学
講義時間 17回×1時間=17時間 28回×2時間=56時間
セミナー時間 16回×1時間=16時間
自習時間 117時間 56時間×2倍=112時間


 講義形式。毎回講義で使う資料はパワーポイントで表示される。しかもパワーポイントの資料は”Blackboard”とよばれる大学内のウェッブサイトを使って、あらかじめ学生に提供されるので、学生は自分で資料をコピーして授業に臨むことになる。名城大学経済学部でも経済学部のホームページ上に、エコノグループがオープンしてからは、資料の印刷から解放されたが、2008年夏にサーバーがダウンしてからは、以前のように、授業のたびに10頁くらいになる資料を450部もコピーし、学生に配布しなければならなくなった。
 このように授業はパワーポイントを使って行われるが,パワーポイントは一長一短のように思われる。長所は言うまでもなく、要点を示すことによって受講者は理解しやすくなり、また黒板を使う必要がないので講義時間に無駄がなくなることである。逆に、短所はポイントだけを示すために話が要約的になり、論理的でなくなるきらいがあることである。おそらくパワーポイントに適する授業と適さない授業があるのだろう。キングストン大学での授業を聞いている限りでは、教員は50分間の限られた時間内により多くの情報提供をしなければならないために、授業内容が上滑りな印象をうけたことは否めなかった。もっとも講義のなかで掘り下げた話ができない分は自習して、補足しておくようにとの考え方なのかもしれない。
 受講学生数。 2009年度の名城大学における中小企業論(前期開講)の履修登録者数は450名、そのうち授業に出席した学生は400名前後であった。キングストン大学の受講者は50名程度である。大学によっては受講者が30名以上になる授業は行わないというところもあるようなので、日本に比べれば大違いである。日本では、出席をとらないと学生は授業にでない傾向があるが、キングストン大学で出席をとっているところをみたことがない。それでも出席率が低下した週があり、翌週の授業で、授業に先だって担当のイギリス人の教員から、「今日は不愉快な話から始めなければならない。君たちは何の為に、大学で学ぶのか」との話を、学生たちは聞かされるはめになったことが一度あった。翌週からは出席者が増加したから、教師のお説教が利いたようである。あと日本の授業では、学生の私語が激しく、いくら注意しても一向に改まらないが、キングストン大学では私語を聞いたことは一度もなかった。それだけ授業に集中しているのであろう。

【3】地域産業集積の研究

 名城大学では、2000年に経営学部の中根敏晴教授を研究代表者として、地域産業集積研究所が設立され、研究活動を続けている。私もこの研究所のメンバーの一人として、研究に参加している。この研究所では日本国内の産業集積のみならず、トヨタ及びトヨタ系の部品メーカーの海外事業展開についても研究している。後者の海外事業展開に関連する研究として、2000年にはアメリカ、2002年にはイギリス、2004年にはEU(フランス、ベルギー、オランダ)、2006年にはタイ、2007年にはトルコ・東欧(チェコ、ポーランド)及び中国(広州)におけるトヨタ及びトヨタ系部品メーカーの海外事業展開の調査に参加することができた。
 これらの調査の結果、世界各地におけるトヨタ及び部品メーカーの事業展開の一端を垣間見ることができ、事業展開にも地域的な同質性と異質性が存在することが理解できた。世界をアジア・ヨーロッパ・アメリカの3地域に分けてみると、地域のいかんにかかわらず共通の特徴が見られる一方で、地域が異なると別の特徴が現れるのである。これを同質性と異質性と名付けると、その同質性と異質性は、産業集積の形成の有無と日系企業への調達の依存度に典型的に現れていると考えることができる。
 まず産業集積の形成について。タイと中国を代表とするアジア地域における自動車およびその部品メーカーの事業活動の特徴は、日本と同じように、近接した地域に工場が立地するという産業集積を形成しつつ、事業展開がおこなわれるところにある。産業集積が形成されるのは、農村部に過剰人口をかかえた、労働力移動が容易な国あるいは地域の特徴である、と考えられる。タイ・中国に代表されるアジア諸国においては、かつての日本がそうであったように、農村地域の過剰労働力の都市への移転が活発であるため、労働力移動が頻繁におこなわれ、その結果、産業集積の形成が比較的容易になるのである。他方、労働力の地域間移動の比較的少ない欧米においては、同一地域に多くの企業が集積すると、その地域に労働力不足をもたらし、賃金の高騰が発生するため、進出企業はなるべく離れて立地する傾向にある。
 現地調達の実態。この調査でもう一つ分かったことは、アメリカとアジアにおいては、日系企業からの調達率が非常に高かったのに対して、ヨーロッパではそれほど高くないという事実である。これは現地化という言葉とは裏腹に、アジアとアメリカにおいては日系企業間の仕事の回しあいが行われているのである。自動車組み立てメーカーと主要部品メーカーが一体となって海外事業展開を行う船団方式の海外投資活動は、アメリカとアジアに特徴的なものであって、ヨーロッパではみられないのである。アメリカの自動車メーカーはもともと内製率が高いため、部品メーカーがそれほど育たず、その結果、日本の自動車メーカーが現地生産を開始したときに、部品メーカーを引き連れて、海外投資をしたが、タイや中国においても事情は同様であった。これに対してヨーロッパでは、EU全体をみれば、部品メーカーが確立しているために、日系企業への依存度はそれほど大きくないのであろう。先の、集積と分散と同様に、欧、米、アジアの自動車および部品産業の存在を考える場合に、興味深い論点を提供している。
 もちろん以上2点は、まだ仮説の段階であり、今後、実証していくことが求められる。

【4】むすび

 以上、10年間にわたる名城大学での研究生活を振り返ってみると、いつものことであるが、研究成果を発表するのが亀の歩みのように鈍いことは否定できない。言い訳になるが、研究者は、短距離ランナーというよりも、長距離ランナーではないか、つまりゆっくり時間をかけて、質の良い研究を継続することに意義があるのではないかと思っている。もちろんこれは一般論であって、私の研究が質の良いものだと言っているわけでは決してない。むしろ論文を書いたあとは、毎回反省ばかりで、内心忸怩たる思いにとらわれているのは、すでに書いたとおりである。それにもかかわらず、研究の継続性と質の向上は努力目標であることは間違いない。研究者としての人生に、そろそろゴールが見え始めた私にとって、これを肝に銘じて残された時間を有意義に使っていきたいと思う。(2009年9月 記)